上越はつらつ元気塾



塾長雑感

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2016.6.23
 プレゼミ雑感

 今年度の元気塾のテーマは「上越の食の元気を探る」。上越の元気の源さがしのターゲットを「食」にあわた。そのプレゼミとして上越教育大学教授、光永伸一郎さんにおいでいただき、‟無形文化遺産「和食」と上越”というテーマでお話しいただいた。光永先生は平成5年上教大赴任以来、上教大22年のベテラン先生だ。現在、大学での教育・研究のほか、社会貢献活動の巾は広く、上越発酵食品研究会や、坂口謹一郎博士顕彰委員会で活躍している。私も上教大にいた頃、研究室が近かったので光永先生とは研究仲間としても親しいものを感じていた。

 先生の話はおもしろい。授業の出席カードで小さなアンケートをとる。例えば「上越に来て初めて知った食べ物や、びっくりした食べ物は?」など。そうすると学生も真剣に答える。「鮮魚やお米、お酒がおいしい」、「見たことのない野菜がいっぱいある」などのおもしろい情報が出てくる。ちょっと変わったところで「たけのこ汁の中にサバ缶が入っている」や「サメを食べる」などもある。そうした情報をみながら先生は、上越の「食」の特徴を次の二つにまとめた。

①「山菜」
 先生が考える上越の特色はこれだという。その例は、うど、こごみ、タ
 ラの芽やふきのとうなど。このうどは「山ウド」でこごみは「クサソテ
 ツ」というのだそうだ。これらには植物ホルモンの「ジベレリン」がた
 っぷり含まれていて、「春の景色」を彩るもので上越教育大学の庭でも
 いっぱいとれますよ、と笑う。フキは日本原産の植物で、ポルフェノー
 ル「苦味」が含んでいて、循環器障害の予防にもなる。さらにビタミン
 ACEも多く含まれている。先生いわく、「春の料理には苦みをもれ」。

②「アミラーゼの食文化」
 アミラーゼはデンプン消化酵素で、上越にはとくに「粟アメ」をつくる
 食文化がある。このアミラーゼにはいろいろの種類があるそうで、人の
 アミラーゼは糊化デンプンしか消化できない。粟アメは大麦のアミラー
 ゼ(生デンプンを消化できる)によってつくられている。こうして語っ
 た後、しっかりと上越の「食」は「苦味」と「アミラーゼの食文化」だ
 ときっぱりといいきった。

 先生の専門は「食育学」、名古屋大学大学院で博士(農学)を取得されている研究者だ。一方で上越に22年住み着いているとはいえ、上越のことをよく知っていて、地域の特色をみごとに捉えている。自分の専門を上越という地域に見事にとけこませたさわやかなプレゼミ講演だった。

塾長  渡邉 隆

2015.11.30
 「前島密を生んだ上越の秘密」本塾の概要と感想

 上越はつらつ元気塾、平成 27 年度の本塾は 11 月 12 日(木)18:00 から行い、 塾には会員や一般市民の方々を含め 50 名、終了後恒例の懇親会にも 24 名の出席者があり盛り上がった。

シーン 1:塾講義「前島密が考えた近代日本」。

 前島記念館館長:樋口嘉和さんからお話を伺った。密は天保 6 年、正月 7 日に上越市の下池部で、酒屋で地主の上野助右衛門の次男として生まれた。母は 武士の出身で助右衛門の後妻であった。8 歳で母方の叔父で糸魚川の藩医:相沢 文沖と養子の約束をして育てられた。11 才で高田藩の儒学者、倉石典太の塾に 学びにでたという。その時の母:ていの言葉が印象的である。「生後 8 か月で父を亡くし、母 1 人で育てたが、よくぞ就学の道を望んでくれた。うれしい。健 康に注意し勉励せよ。父がいない者といわれるな!」とはげましたという。約2年間、下池部からこの塾に通った。

 13 歳の時、江戸に上り、全国をまわることで、見て学んだ。しかし、それだけでは駄目だと感じはじめた。その矢先、嘉永 6 年、19 歳の時、ペリー来国で、 米国艦隊の偉容を浦賀で見て西洋文化の力を実感した。そして、日本の将来を 考え、更なる学びが必要と感じ、安政 2(1855)年、21 歳で安積艮斎の塾に入ることとなった。自分の目で確かめようとする性格の密は、巻退蔵と改名し、 24~31 歳までの間、全国をまわり、日本の諸制度の実態を見て改善の必要を痛感した。自作のノートにはスケッチやいろいろのデータを書き込んだという。

 32 歳の時、幕臣、前島錠次郎の養子となり、前島来助と改名した。そののち 数多くの業績を残すこととなる。密の業績で忘れてはならないのは、大久保利通に江戸遷都を建言したことである。これが今の首都、東京の誕生なのだ。この業績は密、35 歳の時である。よく知られている郵便制度のスタートは密の 36 歳の時の仕事である。

 こうしたすばらしい近代の基礎をつくった密がどのようにして生まれ育ったかはとても興味がある。それは一つに母:ていの存在である。次に幼児期に感性を育ててくれた糸魚川藩医の叔父:相沢文沖。そして 11 才で門をたたいた高田 藩の倉石侗窩、さらにはその恩師である安積艮斎とその門人の豊かな人材の宝。 これらが人間:前島密を育てた。こうしたことを樋口館長が語ってくれた。

シーン 2:トークセッション「前島密を育てたふるさと上越」。

 出演は、郷土の偉人前島密翁と顕彰する会会長の:堀井靖功さん、津南町立上郷小学校校長の:泉豊さん、上越市教育委員会教育長の中野敏明さん、アドバイザーとして前島記念館館長の:樋口嘉和さん。
 シーン 1 で、人間前島密を語っていただいたことを受け、ここでは「前島密」 を育てたふるさと上越」ということで話を掘り下げていった。

 まずは母の教育について、中野さんから今の子どもたちとの違いについて、 そして上越での郷土の偉人としての前島密の取り上げている様子についてお話 をいただいた。

いかに今、前島密のような人物の存在が教育にとって必要なのか、とくに「学ぶ」ということには、夢がなければならない。そして、上杉謙信の「義の心」に通ずるこころ、つまり前島密が「縁の下の力持ち」という言葉で表現される心が大切というお話をいただいた。

 泉さんからは 11 才で高田藩校に学びに出た密についてお話をいただいた。その当時高田には多く藩校があったそうで、その中で倉石典太の主宰する文武済美堂は注目されていた。当時塾生は 674 名もいた。藩士と庶民が共学し、藩士(約半数)と僧(約 1/3)の入塾者の割合で、就学範囲は高田城下町が大半をしめていた。年齢は 6~67 才に及ぶが、とくに 15 歳と 16 歳の人々が多く、入塾 は 15 歳前後が目安になっていたようだ。文武済美堂の基本的機能は、漢学,兵法の教育であった。あわせて門人たちの様々な目的を達成するため多くの役割 も果していた。例えば、藩士は持論の形成、僧や医師は修業の一環として就学していた。文化的活動を間接的に支えていたし、文化の受容と展開にその場を 提供もしていた。端的に言えば、文武済美堂は高田における文化のネットワー クを作り上げる機能をもっていた、と泉さんは語ってくれた。

 前島密と安積艮斎とのつながりについては堀井さんが前島密翁を顕彰する会 の活動の中で知った発見エピソードを語ってくれた。安積艮際の門人帳に安政 二年(1855)に越後高田在の上野房五郎(21 歳)の入門が記載されていたが、平成 24 年にはじめて、上野が前島の幼名であることがわかり、「通信文化」(平成 24 年 9 月号)に発表されたことを知り、その門人帳を直接確認に安積神社まで足を運んだとのこと。安積塾は当時 2300 名の塾生をかかえる日本有数の学問所で、岩崎弥太郎などその門人には明治初期に活躍された人々がたくさんいたという。艮斎はのち昌平坂学門所の教授になった立派な学者で、ペリー持参の 国書の翻訳さらにプチャーチンのロシア国の国書の翻訳も行った人だった。ちなみに、ペリーの国書も、プチャーチンも持参した国書は母国語で書かれたものであったが、それぞれ中国を経て漢文書に翻訳されたものが日本国に渡されたそうだ。

 最後に今後の上越の教育について皆さんに語ってもらった。堀井さんは、これからも会の 7 名のメンバーで「ワクワクするもの」を上越の皆さんに伝えていく活動をやっていきたいと語った。泉さんは、子どもたちに、前島密のように夢をもち、体験しながら学ぶ人になってほしいと語りました。中野さんからは、密を学び、偉人たちの共有なものを感じるといい、それは「志の高さ」と「他人のため」という気持ちの尊さだと述べてくれた。 最後に、樋口さんが、前島密を学習した小学生から受けた感想を紹介してくれた。「前島さんのやったことが今では“ふつう”になっている!」と。樋口さん は「まさに言い当てています。前島翁が近代国家のインフラをつくり、それが 成長、発展したのが現在だということをみごとに表していることばですね。本当に!」といわれた。

 前島密は母の心をよく悟り、倉石典太、安積艮斎に学び、さらに渡航して蘭学と英語を学び、新しい明治のあけぼのを支えた偉大な人であった。その心に は雪国の生活からくる精神の気容さ「縁の下の力持ち」があったからこそでは ないか!このすばらしい上越の環境を語り、継続していく意義をあらためて認識させられた今年度の塾だった。

塾長  渡邉 隆

写真(1130)

2015.7.13
 平成27年度 第1回見学会「前島記念館」

 平成27年度、は前島密の生誕180年を記念して、元気塾でも「前島密を生んだ上越の秘密」をテーマに活動を開始しました。見学会の第1回目は、前島記念館で開催しました。市内外から14名の参加者でした。
 記念館の樋口嘉和館長の講話と、DVD(タイトル「余地の人」)で前島密の業績の全体を説明いただきました。
幼少期から母「てい」は、密の学びの環境づくりを熱心に行っており、13歳のときには密は一人、江戸に上り、医学、漢学、蘭学、英語を学んでいました。ちょうど19歳のとき、嘉永6年(1853年)のペリー浦賀来航をみて、西洋文明の力を実感すると、すぐさま西洋を学ばねばと、さらに活動の範囲を広げます。そして32歳で幕臣となり、江戸で翻訳や数学教授を務めるようになります。そして、将軍 慶喜に大政奉還を建言しています。明治を迎え大久保利通、大隈重信とともに日本の近代文化を築いた人であったといいます。
 密は「郵便の父」と呼ばれますが、郵便制度についても「万国郵便連合」に加入し、日本が世界的に認められる世界デビューを果たすことを第一の目的としたというのですから、心底から日本という国を愛していた文人なのだろうと思われます。したがって、彼の日本への貢献は幅広く、「日本文明の一大恩人」というタイトルがふさわしいのかもしれません。
 11月12日に、上越はつらつ元気塾の本塾で「前島密」の新たな魅力が発見できると期待しています。

塾長  渡邉 隆

2015.6.2
 通常総会とプレゼミ「上越を元気にした前島密」

 今年のプレゼミは、会員25名、一般25名の参加で開催されました。講師は「郷土の偉人 前島密翁を顕彰する会」会長の堀井靖功さんでした。
 顕彰会は平成25年の春、高校の同級生7名が中心となって発足し、現在に至っているとのことでした。講演テーマは「上越を元気にした前島密」とし、サブタイトルは「~故郷との絆を掘り起し、“学び”“伝え”“全国発信”をめざそう~」でした。
 堀井さんは、顕彰会の目的はずばり、前島密を日本トップレベルの偉人として全国の皆さんに認識してもらうためですと言い切りました。講演は、前島密は郵便の父として有名だが、それ以外にも多くの業績を残している。それを例挙げしてみると郵便創業の他に、
①漢字廃止を建議、②江戸遷都を建言、③鉄道敷設の立案、④新聞事業の育成、⑤陸運元会社を創立、⑥海運政策の建議、⑦郵便為替を開始、⑧郵便貯金を開始、⑨訓盲院の創立、⑩勧業博覧会の開催、⑪の本海員掖済会の創立、⑫東京専門学校の創立、⑬電話の開始、などの事業に携わった。
 このような立派な業績をもった偉人は上越に明治以降61名いるが、その中でも突出した人物ではないか。明治時代における日本の社会資本整備に、すべての分野で関わっている。特別な人である。別の言葉で言えば、「インフラの父」と呼べるのではないか。このような幅広い活動能力をもつ前島密が上越市の下池部の出身であることを誇りに思う。このような偉人の“故郷との絆”を探っていきたいと、堀井さんは語ってくれました。
 前島密は、生まれて12歳まで上越地域に暮らしていましたが、13歳で上越をはなれていて、それまでの詳細の事柄がわかっていません。母・貞(てい)さんの生涯をさぐることにより、いろいろの情報を得る試みを行っています。そうした中、最近判明した前島密の足跡で郡山市清水台の安積国造神社(あたかくにつくじんじゃ)に、安積艮斎(ごんさい)塾の門人帳に「上野房五郎」(前島密の幼名)の記載が発見されました。また、平成25年、滋賀県草津市で実筆書簡など20点が新たに発見されています。などなど、顕彰会の活動とその成果について語られました。また今年は生誕180年記念事業の紹介をいただきました。
 とくに10月17日(土)に開催される記念式典・講演会は興味がわくものです。
①創作落語「前島密と切手も切れない高田の関係」三遊亭白鳥師匠
②近代日本建設の功労者前島密論 ~安積艮斎・倉石?窩(どうか)の学統
 をふまえて~ 安積国造神社 安藤智重
 まとめとして堀井さんは「こんな素晴らしい偉人は、上越からどうして生まれてきたのかの不思議を解き明かしたいそれには江戸末期・明治時代の前島密の育ち方にその秘密があると思うと語りました。
 堀井さんたちの活動が全国に知れ、現在は多くの市民の方々から新しい情報が入ってくるという。是非これからの活動に期待したいと思います。また、この秋の元気塾では、その成果を発表する機会を設けたいと思っています。

塾長  渡邉 隆

2015.6.1
 2015年度スタートにあたり

 現在、日本は世界で注目される国の一つである。日本が持つ国の力の強さとしなやかさがそれを象徴している。例えば、日本は、第二次世界大戦後70年を迎える。大戦で敗北した日本が、戦後たったの20年で奇跡的な復興を成し遂げた。政治が安定し、生産性の高い企業が生まれ、経済的にも発展した。その早さに世界は驚嘆した。そこには日本の勤勉さ、社会インフラや質の高い技術が戦後残っていたことなどによるところが大きい。今から50~60年前、ちょうど第二次大戦の後、高田を中心とした上越地域に疎開文化といわれるような文化人の集まりが市内にあった。この様子を、私たちの元気塾は2010年の「先輩に学ぶ『上越の文化を伝える』」で、報告している。小川未明、小田嶽夫、浜谷浩、堀口大学などと市民として交流した、池田稔さんと宮越光昭さんが語ってくれた。それらの交流は坂口謹一郎先生との交流に広がり、2011年度の「坂口謹一郎先生が上越にもたらしたもの」で、それらは上越の発酵の文化に受け継がれた。2012年は「ものづくりから生まれる上越の力」、2013年は「鉄道が生み出した上越の元気」、2014年度は「電力から考える上越の元気」として、上越の元気の源さぐりが受け継がれて今日になった。
 私たちはこの元気塾の活動で多くのことを学んだ。この地には「生きる」力がみなぎっている。
 今年は郷土の偉人:前島密の生誕180年。郵便事業の創始者として名高い前島密だ。しかし、上越に残された前島の足跡は薄い。上越市下池部の生まれで、4歳で高田へ出て、7歳で糸魚川に、そして10歳で高田藩の「文武済美堂」の門人となり、その後はさらなる学びのため関東に出て行き、そして政府の重要な人物として大偉業を成し遂げている。
 是非、12歳までの少年時代の足跡を追ってみたい。そこには当時の高田地域の教育・文化の礎があったに違いないと確信する。
 今年は「上越を元気にした前島密」の謎解きの旅に出ます。ご支援をよろしくお願いいたします。

塾長  渡邉 隆

2014.10.31
 戸北さんとの思い出

 もうずっと昔。私が上越教育大学に赴任して間もない年の秋、(確かそうだった)実験室整備をしていた。ちょうど私たちの自然系理科の教員が入る自然棟が建てられてすぐのことだった。近くの部屋で誰かが部屋に荷物を運んでいた。新しくいらっしゃる方なのかなと思った。廊下を行ったり来たりしていると、その人にばったり出くわし「今度お世話になる理科教育の戸北です」と丁寧に挨拶された。その時から打ち解けて話がはずんだ。「お酒があったので、呑みましょう」ということになり、小さな宴が始まったその時の御猪口は実験室の小さなビーカーだった。その出会いはこの10月19日の日まで約30年を超す交流の始まりだった。
 あのダンディ戸北は学生に人気があった。バレンタインデーのチョコレートのプレゼントは大変なものだった。中には「戸北、命」という美術の学生もいた。2月14日になると大勢の学生が、チョコプレゼントを持って戸北研究室を訪れていた。それを横目で見ながら「それを少しここに置いていけ!」と学生におどしをかけ、ひやかしていた。
 大学というところは、学生の教育を行うところであるが、教授になると大学の運営に関してもかなりの時間が割かれる。いろいろな役割がまわってくる。戸北さんは教授になってすぐ、附属小学校の校長先生の役割がまわってきた。保護者の皆さんとの呑み会が多いと洩らしていた。やがて私が副学長になり、その4年後、学長となると、ますます彼を手放せなくなった。何しろ、どんなことの相談にも笑顔で乗ってくれる人だった。そして1年を経て戸北副学長が誕生することとなった。大学の人事担当をお願いし、人事選考委員会の委員長を務めていただいた。大学の基本的な運営方針を基盤に一貫した採用人事を行ってくれた。学長としてはとてもありがたかった。
 また私が学長時代、常に考えていたことは、教育現場と大学とのギャップを如何に埋めるのかであった。その解決策の一つとして考え出したのが現職の小中校教員を大学の任期付き准教授として採用することだった。大学で活躍していただいた後、再び現職に復帰する。その結果、教育現場サイドのリアルを大学に持ち込んでもらう。一方その教員が現場に戻って大学とのパイプ役を務めてもらうなどを期待した。そうした交流を通して大学と教育現場のギャップが少しずつ埋まっていく。この人事採用については多くの課題があったが戸北さんのおかげで解決できた。この現場からの採用は全国で初めてであった。教育評論家の尾木直樹氏(現在法政大教授)は新聞で取り上げ、「画期的な取り組み」だと評した。それ以来、全国で多くの大学で同様なことが行われはじめた。今思い出すと、戸北さんへの感謝は一段と深まる。
 そののち看護大学に移ってから公立大学法人になり、その副理事長として戸北さんからおいでいただいた。とくに法人化後の外部評価、年度計画などを担当してくれた。また法人化に合わせて県立看護大学の振興協力会の立ち上げに絶大な努力を惜しまなかった。今年の7月末日に設立総会が行われ、これも無事成功し構成メンバーは現在、法人会員50社、個人会員30名ほどになり活動している。法人化2年目を迎え、外部評価で「順調に執行されている」という評価を得て、ゆっくりと大きくはばたきはじめた看護大である。その矢先での訃報であった。
 また、私が塾長を務める上越はつらつ元気塾でも理事、副塾長をつとめていただいた。合わせて感謝している。先日、その元気塾の成果の一部を上越ケーブルビジョンで公開講座「先輩に学ぶ文人との交流」という番組で発表した。その資料づくりで多くの写真を提供してくださったのも戸北さんだった。その時出演して下さった街の二人の長老、池田稔氏と宮越光昭氏をみて、いつもながら街の生き字引きとして活躍されている姿に感動している。
 ともかくお世話になった。その一言に尽きる。今悔やんでいることがある。それは、もうちょっと早く戸北さんに言っておけばよかった。
     「あの二人が俺たちの未来の姿だよ」と。

塾長  渡邉 隆

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2014.8.28
 2014.7.4を迎えた上越市

 私たちの住んでいる上越市は最近になく盛り上がっています。それは来年3月には北陸新幹線が開通し、東京から1時間48分のところに「上越妙高駅」ができます。また、折しも高田城の開府400年の記念日をこの7月4日に迎えたこともあります。この開府については、ちょっと興味深いことがあります。100年前の高田城開府300年の記念の時は、高田の街は一体となり、大イベントを挙行しました。正確には1913年のことですが、信越線につなぐ北陸本線が全通しました。ついで、大隈重信早稲田大学総長の特別講演や日本ではまだ珍しい飛行機の空中ショーを行ったそうです。2日間のこの大きな祭りで高田駅に出入りした人々は人口のおよそ8倍の24万人であったそうです。その時の高田日報の記事にはこうありました。「大正の越府高田は、新潟、長野、富山の三県結ぶ天与の地理上の価値を発すべき」と。そのうち100年を経ての現在、まさに開府400年と新幹線の開通で同じような状況になっているのです。
 高田、直江津という地域の大正以降の100年の動きを見ると興味ある近代文化史がうかがえます。この上越という街には特色のある医療福祉分野で活動しているところがたくさんあります。
 まず、川室記念病院があります。現在は認知症治療を中心とした総合病院ですが、もともとは川室道一が明治11年(1878)に川室眼科医院として開院し、そののち昭和20年(1945)に眼科を廃し、内科と神経科を併業されたのです。
 次に、高田城御典医で16代続く藤林医院です。この病院も、創設時にはサナトリウムを併設していました。その当時、不治の病といわれた結核の療養病院としてスタートしています。
 この地にもう一つ注目される病院があります。それは知命堂病院です。ここに、大正時代に大関和(おおぜきちか)という看護師がいました。彼女は日露戦争での負傷者を一手に引き受け、その治療にあたった人といわれています。19世紀末、日本にナイチンゲール方式の看護教育が英米の婦人宣教師らによって行われ、ここから日本の近代看護教育が始まるのですが、その教育を受けた看護婦は少数でTrained-Nurseと呼ばれました。大関和は我が国最初のTrained-Nurseの一人であったのです。その大関は明治24年11月29日に当時としては設備のよい知命堂病院が高田に新築開院されました。大関はそこの婦長に就任しています。大関はそののち、東京看護婦会頭となるかたわら大日本看護婦人矯風会を創立し、看護婦の社会的地位の確立と後進の指導に尽くした方です。
 さらにもう一つは旧高田の郊外には高田盲学校という施設がありました。ここはヘレンケラーの影響をうけ、生涯を視覚障害者教育に捧げた粟津キヨがおりました。この学校で聴覚障害に苦しむ多くの子どもたちの育成が行われたのです。
 ここに掲げた川室記念病院、藤林病院、知命堂病院と高田盲学校はそれぞれ、精神病、結核病、看護教育と特別支援教育というキーワードで代表される領域に関わるところなのです。そしてこのキーワードは私たち人間の弱者に対する思いやりと、それを強く支えようとする人としての志の象徴です。
 さらに初等教育に目を向けると、高志、大町、大手町、上教大附属小学校などは100年を超す歴史をもつ小学校です。この街を支える子どもたちの気持ちをしっかりと育てています。
 私たちの住む高田、直江津を中心とする上越市には、この100年の近代史において日本の教育と健康福祉の最先端をいっていたことを証しております。さらにその歴史は昭和に入って大きな力を発揮しています。例えば、新潟県の県立中央病院や県立看護大学は、普通なら中心都市である新潟市に設置されるところです。しかし幸いにもここ上越市にあります。それらの設置に関して私たち上越市の文化、教育、福祉の歴史がしっかりと後押しをしてくれたことに違いありません。
 この北陸新幹線の開通するこの時、上越市は新しいチャンスを迎えております。さまざまな人が企画されていますが、私はこの教育・健康文化都市;上越は新たな試みをしてもいいのではないかと思っています。それは、「上越妙高駅」の前に二つの大学がサテライトをつくることです。上越教育大学は、教職大学院をもっています。これは現在、文科省が推進している教師育成プログラムです。このプログラムでキャリアアップを図りたい現職教員の方々が近隣にいっぱいいます。また一方、県立看護大学には同じようなキャリアアップのカリキュラムがあります。それは看護師の上をめざすプログラムです。専門看護師(CNS)を取得するものです。この二つのキャリアプログラムを夜間大学で上越妙高駅の前で開設したらどんなことが展開されるでしょうか。勤務の終わった人が18時台の新幹線で上越妙高駅に向かう、そして19時から21時までの2コマの授業を受け、21時台の新幹線に乗れば22時には自宅に帰れるなどが可能になるのです。そして規定の単位をつみ上げれば見事なキャリアアップが完成するのです。そう望まれる富山、群馬、長野に住む方々はかなり多くおられると思います。それらの街からは1時間以内で通うことのできることを今度の北陸新幹線は可能にしたのです。望まれるは駅前のサテライトが行える施設を自治体がつくってくれることです。
 開府400年と、そして来春の新幹線開通の時、この街の近代史を振り返ってみてはいかがでしょうか!

塾長  渡邉 隆

2014.6.18
 上越はつらつ元気塾 プレゼミ雑感

 5月28日の総会後のプレゼミでは西山耕一さん(元県立高校校長で郷土史研究家)から「上越の電力開発と私たちのくらし」と題して講演をいただいた。関川の電力開発は、明治36年より始まり、多くの開発が行われた。中でも、明治40年に建設された蔵々発電所は、新潟県最古の発電所で現在も稼働している。昭和9年には東北電力の前身である上越電気の技師、国友末蔵が野尻湖を活用して「池尻川揚水式発電所」を建設した。この「揚水式発電」は活気的な発明だった。冬季揚水期には湖水を落水して発電をし、春季豊水期には下流発電所の余剰電力で高さ75mをポンプアップし湖に還流させた。夏期渇水期には湖水を放水し発電と農業に利用した。また、秋期平水期にはまたポンプアップし、湖に流入させたという。関川の水不足の時には貯水を引き出し、余剰のある時はポンプで汲み上げ貯蓄するあたかも銀行のような役目をする発電所であった。池尻川発電建設により「1本の関川を2本に利用するものだ」と称され、「水田約1万町歩が水不足から救われた。」という。同時に農村の電化が進み、天候などに左右されない労働力の平均化と省力化へ寄与した。こうした電力開発は農業との共存をはかりながら、同時に産業を育成するとともに、高田に軍隊を形成させるための大きな促進力になったことは事実であった。
 中央電気は地域に大いなる貢献をした。古来より産業をはばみ続けた上越の深雪も電力に変え、地域産業を勃興し促進する要因となり、稲作にも多くの水が供給され、農業電力により飛躍的に収穫を増し、冬季出稼ぎを余儀なくしていた農家に終年勤労の場を提供した。
 また、産業の勃興に大きく寄与したのは鉄道の普及であり、とくに信越線が関川沿いに敷設されていたため、川に沿って発電所工事に便利だったことや、労働力の確保にも大いに役立ったことだった。明治36年からはじまった関川水源に沿っての電力開発は農業との共存をはかり、日本一を誇る上越地方の農村電化を成し遂げ、引き続いて電気の工業化を促していった。その産業の勃興は関川沿いに敷設された信越線が大きな力となっている。発電所の工事の資材、人材の運搬や、とくに深雪の不便さにも拘らず発電工事進捗させ、各種の工場誘致と産業の開発に貢献したものだった。このように関川水源の電力開発は、関川の上流から下流の直江津へと信越線に沿って電力開発が工業化をうながしていった歴史を見ることが出来る。
 西山先生は、国友末蔵の業績は、関川水源に残した特色ある発電所と、それをもとに発展した農業、工業の基盤をつくったことであり、
  ①先どりし、夢を実現すること。
  ②地域の資源を最大限生かすこと。
  ③地域を総合的にみること。
 これら3つの視点から地域づくりをしていかねばならないことを教えてくれたとまとめた。
 これからくる開府400年と新幹線などが上越にやってくる。大きなチャンスに行動する指針が与えられた感銘深い講演であった。
 私たちの元気塾は、今年度通常総会を平成26年5月28日(水)17:00から行い、平成26年度の活動テーマを「電力から考える上越の元気」としました。11月の本塾の開催までに関川水源の電源開発の現状の見学会や、直江津港にある中部電力の施設見学などを行いながら、11月の本塾の開催に向けて活動を開始します。

塾長  渡邉 隆

2013.11.30
 平成25年度 上越はつらつ元気塾
 「鉄道が生みだした上越の元気」の感想

 今年11月18日開催の元気塾にも、多くの人たちからご参加をいただいた。塾は午後6時から始まった。
 シーン1では塾講義「軽便鉄道が運んだもの―創立100周年を迎えて―」を、頸城自動車㈱社長の大竹和夫さんからいただいた。大正3年10月に新黒井から下保倉間で軽便鉄道、頸城鉄道が開通し、これを運営する頸城鉄道㈱は、はじめ「上越軽便鉄道㈱」として申請したという。その当時すでに「上越」という名称が使われていたというのは何とも不思議な縁を感ずる。頸城鉄道の列車は東頸城の人々を新黒井へ運び、北陸本線そして信越線に継いだのだ。その列車の中では“かつぎ屋のおばさん”が、ドカ弁をあけ食べていた。そんな風景がみられる頸城鉄道は、昭和20~21年には全盛期を迎えて年間90万人の人々が利用していた。やがてこの鉄道は次に出てきたバスという交通手段に変わっていった。そして地域の交通網はいっきに拡大、充実され、今では大切な交通手段となり、地域と共生している。大正から昭和の100年の間に変化していった。こうした交通インフラの源は山田辰治と大竹謙二の二人で始めた“鉄道ベンチャー”からであった。そんな話を大竹社長から伺えた。
 続いてシーン2では、杉田幸治さん、下間一久さん、佐藤芳徳さんの3名の方に登場願った。杉田さんは頸城鉄道の思い出を語る。平行に走る二本のレールはどこまで続く、天まで続くのか?と子ども心にワクワクしたという。汽車を見るのが楽しみでよく見に行った。また、浦川原駅には出稼ぎに行く父親をよく見送った。この出稼ぎの収入は大変なもので1年分の米から得る収入を超すものだった。雪の季節に送り、春になると帰ってくるという家族のこよみ(暦)が繰り返された。東頸城に住む人々も新黒井へ働きに行くための重要な足だったという。
 下間さんは、頸城鉄道が廃止になったとき買い取られていった神戸まで出向き、保存の良い6車輌だけひきとり、現在、NPO法人くびきのお宝のこす会の会長として、頸城鉄道で活躍したコッペル号を含んで車輌を保存し、今もレールパークで走らせている。これもマニアの人々の協力で行われているそうだ。
 これからやってくる北陸新幹線について、佐藤さんは、新幹線駅の駅名等検討部会などの経験を通して、これをチャンスに上越は新しい魅力ポイントをつくり、それをしっかり守り歴史をつくっていくことが必要だ。例えば宇都宮市だって今から10数年前には餃子は食べていたけど今のような大々的な宇都宮の名物としてキャンペーンをはるようなものではなかった。アイディアがあれば、新幹線を利用して産業をつくることは難しくない。そして人々を呼べるようになるという。
 杉田さんからは、この機会に上越は外へ打って出るべきだ。と大きなイベントとして「港と鉄道」祭の開催、上越市議会が甲冑を着て“甲冑会議”をやるとか上越名産の“上越オリジナルカタログ”をつくり売り出すなどの現案が出てきた。
 講義とトークセッションを通して感じたことは、それぞれに“ものづくり”と“歴史”があるといることだ。山田・大竹氏の夢:「鉄道ベンチャー」の種子は花ひらき、東頸城の人々に希望を与え生活を変えた。その歴史を証明する遺産を下間さんのくびきのお宝のこす会がしっかりとレールパークで今に伝え、見事な連携プレーが行われている。
 今から100年前、信越本線に北陸本線がつながったすぐ後に出来た軽便鉄道、頸城鉄道は上越の交通インフラの基礎を作り、私たちの街の将来を形作ってくれた。新幹線がやってくる今、ちょうど100年前の時に似ている。新幹線が上越の発展の種子、夢の扉となるだろう!そこから元気をもらいたい。

塾長  渡邉 隆

2013.6.17
 平成25年度 上越はつらつ元気塾の通常総会と
 プレゼミの報告

 平成25年度の通常総会は平成25年6月3日(月)15時30分から行われ、「鉄道が生み出した上越の元気」という新しいテーマで、平成25年度の活動計画が承認されました。
 ものを運ぶ;人を運ぶ;財を運ぶ、というように「運ぶ」という機能はもっとも基本的なインフラです。とくに21世紀には「情報を運ぶ」という新しい視点が入ってきます。今から100年ほどさかのぼった1913年には北陸本線が全線開通となり、その翌年1914年には頸城鉄道が開通しました。そうしたイベントのおよそ100年後が今年にあたります。さらに2年後2015年には北陸新幹線の開通をひかえている今日なのです。この時、私たちのまわりの「鉄道ものがたり」に注目した新しい出発を試みることといたします。
 それに引き続いて行われたプレゼミの様子を報告します。講師は上越市在住の地域史研究家の杉田幸治さんです。そしてテーマは「くびき野縁旅鉄道の夜明け」です。
 私は郷土史の研究者でも、学者でもありません。この土地が好きで土地名についてとても興味があり、その興味のなすがまま、いろいろと調べたりして暮らしている東頸城生まれの一市民です。と言って話がはじまりました。
 子どものころ軽便といわれた頸城鉄道を利用した一人だといわれた。杉田さんの子ども時代を10才とすると1933年生まれだというのだから1943年ごろ、つまり第2次世界大戦の没発から戦後の時代が少年時代にあたります。その当時日本は貧困な経済状況で今からは考えられないくらい貧乏な国でした。その頃お父さんが、頸城鉄道、浦川原から黒井に出て信越線で上京し農閑期に関東で働いてくる。いわゆる出稼ぎの父親を見送っていった思い出が頸城鉄道と重なってくるという。そして親が一生懸命に働いたおかげで自分は大学まで出ることができたそうだ。まさに、頸城鉄道は懸命に家族の成長を支える労働力を財に変え、そして教育に変え、若者の成長を支えてきた大きな「力」だったのです。
 また、1909年当時、田口(現在妙高高原駅)にあった電気化学工業所(中電の前身)が関川水系の電源開発を行い、蔵々発電所という日本最初の揚水式発電所を建設した。その建設者は国友末蔵といい、高田名誉市民第1号で現在、高田中央郵便局の前に銅像としてお姿を拝見できる人です。
 この関川水系の電源開発と中電の電気化学工業の発展により、日本曹達㈱、電気化学㈱、信越化学工業、日本ステンレス㈱、ダイセル化学工業㈱、理研製鋼㈱の発展を導き出していったという。つまり関川の上流から下流の直江津方向、そして日本海の海運と結びついていったという時代の流れがここにあります。
 この信越線沿いに電源開発からはじまった電気化学系産業の発展の流れをくびきの偉大な住人がしっかりと見すえていたのです。その人物こそ山田辰治、大竹謙治兄弟であったのです。彼らは海から奥まって東頸城に住む人々の人的資源と農産物を中心とした自然の資源をどうにかして直江津港まで運びたいという情熱にかられていました。
 1911年(明治45年)に上越軽便鐡道(直江津町古城~浦川原)の敷設申請を行い1914年には頸城鉄道として新黒井~下保倉間を開通させたのです。この鉄道をつくるのに土地問題は何もおこりませんでした。それはこの新潟地区の本土全部は山田、大竹ご両人が地主だったというエピソードもありました。
 えちご人、山田、大竹兄弟が自分の住む街の将来の発展を願って、自分の財を投げうってつくった鉄道、それが頸城鉄道だったのです。これにより東頸城の人と物が直江津に運ばれて行き、多くの人々の幸せな人生を支えてきた鉄道なのでした。
 その一人でもある杉田幸治さんは今日のこの講演のテーマに「縁旅」ということばをかざり鉄道の「運んだ」ものは何なのかを私たちに深く考えさせてくれたのでした。
 これから新幹線もやってくる今日このごろの上越、そしてえちごトキめき鉄道の開通と「夢」を運ぶインフラが上越にいっぱいやってきます。まさに新しい「縁旅」を楽しんで、ますます、上越がはつらつとしていくことを願ってのご講演でした。
 上越の新しい「縁旅」は人を運び、財を運び、情報を運び、そのうえ「人情」を運ぶ鉄道をつくっていくことを期待したいですね。本当にありがとうございました。

塾長  渡邉 隆

2012.8.1  第1回企業見学を終えて

 上越はつらつ元気塾の平成24年度のテーマは、「ものづくりから生まれる上越の力」です。私たちの上越には、伝統工芸であるバテンレースに使用されるテープをつくる技術がありました。そのテープをつくる技術;細巾織物の技術が、この上越の近代工業の基本になっているという。その細巾織物メーカーであった企業が、年を経て、独自の近代製品を開拓し、全国トップレベルの企業になっているところが、上越にたくさんあることを知りました。上越はつらつ元気塾は、それらの企業の工場見学をしながら、細巾から近代技術への道筋をたどってみたいと思います。
 まず、この7月30日(月)にホシノ工業株式会社様を訪ねてみました。社歴は古く、大正5(1964)年5月に創業し、バテンレース用テープの生産を開始しております。その後、ファスナーの綿テープ、石油ストーブ芯、消防用ホース、ストレッチテープなどの製造に移り、平成7(1995)年には、自動車のエアバッグ用の基布生産を開始し、平成9年には、エアバッグ袋体縫製と折りたたみ生産を行なっております。現在は、エアバッグ関連の仕事は、すべてベトナム工場に移しているとのことでした。
 こうした細巾からエアバッグへの製品の変化の歴史をみると、時代の変化に伴ってのニーズに対応して製品が生まれています。そしてその製品の特性にあわせての素材の変化がみられます。初期の木綿糸布地から最近では、エアバッグ素材として、高強力、低通気、耐熱性が要求されるナイロン素材になっているのです。
 しかし、その基本には、「織る」というキーワードがあることがわかります。大正から脈々と続く製品に変化がありますが、基本的な技術「織る」には、変化がないことがうかがえます。ホシノ工業様には、製品が要求する特性を出せる素材を「織りこむ」という製品生産技術が、ここにあると実感させられました。
 ホシノ工業様の見学は、社員の皆様のご協力により、35℃を越す猛暑日にもかかわらず、さわやかな印象を心にいただきながら、工場をあとにしました。
 今後、9月には、市内のもう一つの細巾工業から生まれた近代工場;有沢製作所様の見学を計画しております。そこでもまた何か新しい発見ができるのではと今から期待しております。これらの見学会の後、10月23日には、今年度の第1回元気塾を開催します。細巾から近代技術までのものづくりの歴史とそれを育てた上越の街の力を語りあう会にしたいと思っています。

塾長  渡邉 隆

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2012.6.5  新しいテーマで旅立ち

 上越はつらつ元気塾では、平成23年度で「坂口謹一郎先生が上越にもたらしたもの」をテーマに活動してきました。5月27日にプレゼミで上越の発酵文化の歴史と食品について、高校生のときから坂口先生とゆかりのある佐藤哲康さんにお話しいただきました。10月11日には、「坂口先生、思い出ばなし」と題して坂口先生のお弟子さんである駒形和男先生からご講演をいただき、坂口先生の発酵科学への深いご理解とその思いを知りました。3月20日は、もう一人のお弟子さんである秋山裕一先生に「お酒と歌と坂口先生」と題して、ご講演いただき、坂口先生のあたたかい人柄を感じました。これらを通して、上越の元気は、ここから生まれていることを実感しました。塾の成果を講演録としてまとめ、ホームページにアップしましたので、是非ご覧いただきたいと思います。
 そして、今年度は、5月29日に平成24年度通常総会を行ない、新しいテーマ「ものづくりから生まれる上越の力(元気)」を設定しました。そのプレゼミとして上越ものづくり振興センター所長の澤海雄一さんから「上越地域のものづくり」というテーマで話題提供をいただきました。新幹線開業を平成27年春に迎える現在の上越をみると、生々と活躍する数千社を越す上越の中小企業の元気のエネルギーを感じます。ゆったりと上越を支える文化の力とともに、現代社会を支える「ものづくり」の力をこの上越にみることが出来ます。例えば、毎日乗る車のシートベルトも、上越の企業が製造していて、その技術の基本は上越の伝統技術「細巾」に由来しているそうです。その他、探してみると、もっともっとありそうです。
 文化―伝統―近代技術の連携がうまくいっている街:それが、上越であり、そこに元気の源がもう一つありそうです。そのワクワクする旅に、私たちの元気塾はこれから旅立ちます。

塾長  渡邉 隆

2012.3.23  平成23年度元気塾のまとめ

 昨年度のテーマ 「先輩に学ぶ~『上越の文化を伝える』を考える~」の一連の活動として、2012年3月12日に池田稔氏、宮越光昭氏をおよびして「先輩に学ぶ『文人との交流』」と題してのトークを行ないました。その中でお二人から多くの文人との交流をエピソードと交えて語っていただきました。交流のあった方々は、堀口大学、小田嶽夫、倉石武四郎、棟方志功、浜名浩、そして坂口謹一郎たちでした。しかもそれらの交流は、ごく普通な日常的な中で行なわれており、「文化」は、生活の中で育てられ、時とともに熟成し、その地に馴染んでいく様子がわかりました。なかでも坂口先生との交流は、ごく最近まであり、麹の文化と科学を上越にしっかりと根付かせていただいたことを知りました。
 これを出発点として平成23年度の元気塾は「坂口謹一郎先生が上越にもたらしたもの」をテーマに活動することになりました。5月27日開催のプレゼミでは、高田高校時代、創立記念日の特別講演で来られた坂口先生の前で、キレート分析による化学研究の発表を行なったのをきっかけに発酵への道に進んだという佐藤哲康さんに、上越の保存食品と麹文化の豊かさを語っていただきました。
 それを受け、10月11日の上越はつらつ元気塾には、坂口先生のお弟子さんである駒形和男先生をお迎えし「坂口先生、思い出ばなし」と題してご講演いただきました。駒形先生は、坂口先生の菌に対する認識の高さを語られました。菌株を保存することが未来の世界にとってとても大切であることを認識されており、それをユネスコに「カルチャーコレクション」として提案されたことを語ってくれました。その先見性には、脱帽の感がありました。
 次の「トークセッション」では、麹の文化を実際に活用している街の方々をお招きして、語っていただきました。その方々は、 杉田貴子さん(㈱杉田味噌醸造場)、小林元さん(㈱武蔵野酒造)、東條邦昭さん(㈲かんずり)、佐藤哲康さん(㈲佐藤学習科学研究所)でした。
 そして雪の降る3月20日に平成23年度最終の塾を「町家屋交流館 高田小町」で行ないました。当日は、秋山裕一先生による塾講義「お酒と歌と坂口先生」がありました。秋山先生は、自分は坂口先生の不肖の弟子だといっておられました。しかし、それは、秋山先生が研究者としての道ではない、醸造試験所に入られたことを卑下しての表現だったのです。その試験所で無泡の麹の発酵方法を見つけ出した時、「無泡制天下」という坂口先生のお褒めの色紙をいただき、先生への恩返しが出来たと、誇らしげに語ったのが印象的でした。なんともあたたかい坂口先生のお人柄を感じました。
 坂口先生の最後の直弟子二人、駒形和男先生、秋山裕一先生の講義をお聞きすることが出来、坂口先生の全体像が、浮かびあがってきました。この23年度の活動は、次のようにまとめられます。
 ―上越には、味噌、かんずり、酒、ワインなど、生活に密着したおいしい文化がある。これは上越の気候が、夏は高温多湿、冬は低温多湿という発酵に適している気候風土にあるからです。この地の偉人:坂口謹一郎先生は、すべての「学」は「人の幸せのための学」であると述べました。発酵学への寄与は、申すまでもなく「菌」を守り継続させ、そのことの重要さをユネスコに提言し、カルチャーコレクションとして世界に認知させました。その流れは、発酵文化として現代に受け継がれました。発酵菌は、人類の大腸の中に入り、人の免疫力を高め、人を幸せにするという目的を達成しました。上越の元気は、ここから生まれているのです―
 こうした平成23年度の活動をうけ、平成24年度の「上越の元気源」の旅は、新たな航路に出ます。伝統から生まれた技術の枠は、世界に通ずる科学技術を生み出している上越のもう一つの顔があり、それが上越の産業を支えています。来年度はその現場を探り、そこにもう一つの「上越の元気の源」があることを探っていきたいと思います。新年度の新しい旅に期待して!!!

塾長  渡邉 隆

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