上越はつらつ元気塾



塾長雑感

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2012.3.2  “ふるさと”は遠きにありて思ふもの

 地方の小さな街から、東京の大学に出て行った若者が、帰省して家族につぶやいた、「東京は、こっちのみたいにうまくないんだよ、魚やご飯が」。あの大都会で一人で暮らし、自由な時間を楽しんでいるものと思っていた。そうか、確かに、この街には、海からとれる新鮮な魚とすぐ近くの田畑からとれる野菜や米がある。これは、都会では、なかなか入手が難しいだろう。この若者は、この街で育った。この街の空気と水とそこでとれる物を食べた。理想的な地産地消である、私は思った。それに加えて彼のからだには、この地の文化や歴史がしっかりとしみこんでいるのだと。若者がこんなふうにふるさとを認識していることをはじめて知った。地元で元気にやっている親や仲間たちの存在が、都会で生活し、仕事で活躍する若者への大きな支えになっていることだろう。
 若者が、大学で学び、社会に出ていく。私たち地方に住む先輩たちは、こうした若者を育て、送り出すことをしっかり意識せねばなるまい。
 高名な医学者:日野原重明先生が、こちらの街に講演にこられた時、とても印象的なことをお話しされた。人は、母体から免疫力を与えられ、生まれてくる。しかしその免疫力は、50才を越えるとほとんどなくなってくる。それからは、自分の生活環境によってつくられる免疫力によって、守られる。だから例えば、80才、90才の方々は、50才からこんな生活してきましたということを伝えていくといい。こうすれば、80、90まで元気でいられるよと若者に語ることが重要だと。
 地域に住み、あの若者がなつかしがった食べ物を今でも食し、そこから得た生きていくコツを伝え、若者たちにしみついている文化と歴史の香りをいつまでも継続させるのも地元にいる人たちの大きな仕事である。ふるさとを思う心の強さを“ふるさと度”と考えれば、その度が高いほど彼らのモチベーションは、上がることだろう。若者が、自分たちが巣立ってきた地方の街の食べ物や歴史、文化を守って元気に生きている親や仲間たちの存在を思い出す心が、ふるさと度なのだろう。地域のいいものを味わった若者こそがAll Japanを支えるものと確信している。また、彼らがふるさとにUーターンしてくることもこらから大いにある社会になっていくことだと思う。

塾長  渡邉 隆

2012.1.20  みえてきた復興のきざし

 2012年の新年を迎えて、皆様は、どんな感想をお持ちでしょうか。2011年の暮れから翌年の2012年の正月にかけて、いろいろな報道の中で、映る日本の姿が少し変化してきたような気がします。
 暮れに報道された日本の原子力エネルギー開発の事実はかなりずしりとくるものがありました。「こんなこともわかっていなかったのか!」とか、「そんな危ない計画で、原子力発電が行なわれてきたのか」などなど。しかし、同時に映された東日本で被災された方々の日常には、強く明るい人の姿がみえてきたのです。
 この災害をのり越えようとする人たちのたゆまない努力とその精神力に何か逆に自分たちが励まされていることを自覚するのでした。そして若者たちの成人式の姿をみると、そこには次の世代をしっかりと受けとめようとする気迫を感じました。それは、明るく、すがすがしく、たのもしく、将来をみつめる目とその心だったのです。
 私たち自然科学に携わる者も、何かをしなくてはならないという切迫したものを感じています。そのなかで、地球科学の分野で大きな動きがありました。
 東日本大震災では、想定を超える津波に襲われた東北地方において、そのつなみ浸水範囲は、貞観地震(869年)の浸水範囲とほぼ重なることがわかったのです。これは、2005年から行なわれてきた津波堆積物調査から明らかになった事実です。調査結果は、2011年4月に発表され、政府の地震長期予測に反映される予定だったのです。その直前に3月11日の巨大津波があったのです。
 成果がもっと早く生かされればと悔やまれました。この貞観地震(869年)は、今から1100年も前のものです。その時に起きた津波による堆積物が地層の中から発見されたのです。津波堆積物は、普通海の中に堆積するものとちがい陸地に砂が堆積するので、海の中に連続的に堆積してつくられる地層とは、異なるので、明確に区別が出来るのです。そのように地層の中をさぐっていくと日本に発生した大津波の証拠が、次々と発見されてきたのです。
 11月上旬には、下北半島で、三沢市の海岸から約1キロ内陸にあるところから、約600年分の地層(これは、深さでおよそ1メートルにあたる)から、砂の堆積物が二層みつかりました。また、北海道太平洋沖では、300〜500年間隔で巨大津波が発生し、1611年に発生した三陸沖での大地震と、その津波は、北海道から福島までおそったことが記録されています。また、東北地方太平洋沖でも、600年間隔での巨大津波の発生や、南関東での、300〜400年間隔で関東大震災級の津波地震があったことが、わかってきました。
 こうした津波を伴う大地震は、北海道から東北関東の太平洋側で300〜600年間隔で、確実に発生していることがわかってきました。
 これをうけ、日本の地震・津波対策について、見直しが始まっています。今まで、100年を単位としてとらえていた対策を1000年単位まで拡大しての対策をとるように変化してきています。地震国:日本の地震災害対策は、2011年の東日本大震災によって、確実に人類史上はじめての質的変化がおこっているのです。21世紀の人と地球の関係を変える偉大な出来事です。

塾長  渡邉 隆

2011.10.25  ISO と JIS

 先日、東京で、大学で同じゼミにいた友人と呑んだ。彼は、翌日からウイーンでISOの会議に出発するという。多忙の中、よく時間をつってくれたと感謝した。その呑み会で、彼の仕事の内容をうかがうことが出来た。彼は、もともと厚生労働省の関連の研究所で、粉じん対策の研究をしていた。粉じんの中で病気につながるもので有名なのが、珪肺とアスベスト被曝である。この両者とも、鉱物が原因となっている呼吸系の病気である。珪肺は、石英の微粒子が原因である。おもしろいことに石英の結晶面がでている粒子が肺細胞を浸していくのである。その石英をめのう乳鉢などで摩砕するとその石英粒子の毒性が下がる。アスベストについては、結晶の形態による毒性が認められている。つまり、アスベストは、針状の結晶であり、この針状の直径と長さの比でアスベストの毒性がきまるというのだ。石英もアスベストも地球表層に産する人類にとっては、有用な鉱物である。
 さて話はもどるが、友人の今回のISOの会議は、日本にとっても大変な影響力のあるものらしい。つまり、アスベストの空中飛散の原因となる建築素材の鑑定基準を決定することだという。その判定基準が日本のJIS規格による判定基準では、電子顕微鏡とX線分析による粒子の確認をすることとなっている。これに対して、米国では、これまでやってきた光学顕微鏡による判定を主張している。ヨーロッパもそれに同調していて、ISOでは、JISの主張が不利の形勢だというのだ。科学的にみれば、日本JISの判定法が、米国の手法より数段すぐれているのに、そのJIS案を通すのが、かなり困難だという。それは、米国のこれまでやってきた業者の既得権益を守らねばならないというジレンマがあるという。いやはや、科学の世界にも、米国のGlobal Standardが入ってきたのか。あまり気分のよくない話だ。彼には、ロビー活動で是非頑張ってもらい、いい成果をもちかえってほしいものだ。それにしても日本は、JISというすばらしいシステムをもっている。それなのにどうして原子力に関する放射能の生物への影響のスタンダートシステムは、出来なかったものか、少し無念だ。

■ISO:国際標準化機構(International Organization for Standardization)、電気分野を除く工業分野の国際的な標準である国際規格を策定するための民間の非政府組織。
■JIS :日本工業規格(Japanese Industrial Standards)は、工業標準化法に基づき、日本工業標準調査会の答申を受けて、主務大臣が制定する工業標準であり、日本の国家標準の一つである。

塾長  渡邉 隆

2011.9.15  「発酵のまち、上越」のスタート

 先日、上越市で「上越発酵食品研究会」が発足した。それにあわせて、上越教育大学で記念シンポジウムが行なわれた。この研究会は2015年春の北陸新幹線の開業にあわせて「発酵のまち上越」を全国に発信しようというものである。
 天野良英氏(中小企業支援アドバイザー)による全国的な観点での提言が、ずしんときた。いわく、発酵食品のまちになるためには、(1)「発酵」の歴史、文化、技術 (2)お金 (3)地域活性化力 の三つが必要だと。そして、(1)商品 (2)観光 (3)技術 の三つの要素が連携した取り組みが出来ること、つまり「心を一つにすること!」だと。
 地元の佐藤哲康さんは、上越は発酵食品のまち、そのものだという。上越の発酵歴をみると、日本酒は戦国時代からあり、麹屋や杜氏は、江戸時代には20人を越していたし、明治以降は、川上善兵衛、坂口謹一郎に代表される研究者も多数うみ出している。
 醤油、味噌、たらこの麹漬、水あめ、納豆、ワインを商品としたお店もたくさんある。とくに味噌は、全国の大会でも、常にトップクラスの位置をしめており、上越の味噌の出来が、その年の標準になっているとのことである。
 味噌は、「手まえみそ」といわれるように各それぞれの家が特有の「みそ」をつくっていたという歴史がある。その材料について、このシンポジウムで興味ある話を伺った。JAえちご上越では、上越の農家につたわる「大豆」について調査しているとのこと。何かというと、各農家は、各自固有の「大豆」の種子を先祖代々つたえているという。その代々伝えられている「大豆種子」の中に大豆の葉が五葉もある「いつっぱ」という豆などがあるそうだ。それらを提供してもらい、上越Only oneの「豆」に育てていくプランを考えているというのだ。
 味噌は、日常生活で用いられる発酵食品の中の代表的なものだ。そしてその発酵食品は腸内細菌を活性化し、人間の免疫力をアップする。発酵と健康がつながり、上越の大豆の歴史の宝が、それをバックアップしている姿は、正に上越地域活性化の夢の姿ではないだろうか!
 このように発酵の文化、歴史、技術は、たっぷりあるし、その技術力もしっかり持っている。あとは「心を一つにする」技だろう。それを民間と行政がどうタイアップできるかが、今後の課題だ。

塾長  渡邉 隆

2011.9.8  「ボケ」はこわいですか?

 私の勤めている新潟県立看護大学には、看護研究交流センターという附属の施設があり、大学の社会貢献の窓口として活動しています。
 私が学長に就任した時、看護大学は地域にどんな貢献が出来るかを問うてみました。その答えの一つが、市民の民様に地域医療に関する有効な情報提供をするということでした。そして、そのために新しくつくられたのが、「いきいきサロン」というプロジェクトでした。このサロンは、地域のホームドクターや本学の教員の方々に自分の専門分野のお話をしていただく。そしてそのあと参加した皆様から質問などをうけるというものです。夕食前の約1時間のイブニングサロンです。
 日頃、ホームドクターの診察を受けるときは、尋ねたいことがあっても尋ねる時間はない。それならば、このサロンに先生をお呼びして、ゆっくりとお話と対話を楽しもうと計画されたものです。このサロンでしか聞けないエピソードもありました。泌尿器科のドクターがおいでになった時、「おしっこ」の話で、質問が出ました。参加者:「先生、おしっこって、我慢すると病気になるのですか?」先生:「そんなに人間、やわではないです。膀胱が我慢できる限りは大丈夫です。」皆さんに笑顔がでて、楽しいサロンでした。
 この2年半で、16回の開催、のべの参加人数は、1100名を越して、リピーターの人たちもずいぶん増えてきました。丁度、昨日8月24日には、110名の参加がありました。これは、これまでの最高記録でした。そのテーマは、「入院するとボケるって本当?」でした。市民の皆様が聞きたかったテーマなのでしょうね!これからも継続していきたいと思っております。

   看護研究交流センター情報 http://www.nirin.jp

塾長  渡邉 隆

2011.8.26  オープンキャンパスにて

 大学は今、高校生に向けてのオープンキャンパスの最盛期です。新潟県立看護大学でも今年は8月3日と23日の2回のオープンキャンパスを行ないました。
 第1回目は205人、第2回目は198人の申込みがありました。この数字は昨年のおよそ3割増となっています。将来、看護の世界で働いてみたいという若い人が大勢いらっしゃるということです。なかには看護は就職に有利と考えている人もいるでしょうが、いずれにしても、看護に目を向けてくれた若者たちに期待しています。看護は、国の基盤を支える大切な仕事です。
 今年3月11日に、1000年に一度といわれる、東日本大震災があり、すでに6ヶ月目を迎えようとする今日ですが、まだまだ復興のきざしが見えていません。21世紀の課題;「地球と人の共存・継続」には、科学技術の進歩と成果の貢献は必要です。とくに地震に関しては、現時点では、予想は不可能。少なくとも科学者の考える時と日常生活をしている人たちの時とは、感覚が違っています。そのずれを今、うめることはできません。これからの科学の進歩に期待するしかありません。
 看護の世界で、何かできることはないでしょうか。実は今は、災害時における「看護」とは何かを問う、絶好の機会でもあります。これまであまり検討されてきていなかった重要な分野です。世界的に広がる感染症看護と同じように21世紀の課題なのです。こうした新しい課題に取り組んでいくのは、強い気持ちがないとなかなかできるものではありません。特に2011年のこの日本の状況を体験している若者たちにこの役割を担ってほしい。国が最大の危機に面しているとき、若い時代をすごした者たちには、とてつもない強い運命のエネルギーが与えられているものです。私たちはそれに大きな期待をよせています。
 日本の大きな「安全」「安心」を確保するため、この看護の世界で学んでいただきたい。若者たちの大学での四年間の努力に期待しています。

塾長  渡邉 隆

2011.6.17  災害から何を学ぶ?

 先日、全国公立大学協会の総会が、東京の学士会館で開催された。その会の福島医科大学長からの“被災地域からの報告”は、非常に印象深いものだった。特に強く感じたことを6つほど指摘している。

 1.放射能に対する知識の不十分さ
 原子力発電の教育において、安全教育が主となり、放射能の基本的知識の学習が欠けている。
 2.リスクマネージメント・コミュニケーターの不足
 科学技術を進歩させると同時にそれを普及するための人材が育成されていない。
 3.原子力の研究者、科学者が少ない
 こんなに日本で原子力を活用しているのに若者の育成するシステムが弱く、質、量とも欠如している。大学などの教育機関でのバランスの悪さがみえる。
 4.「安全」と「安心」の区別が出来ていない
 「安全」を確保するには、きちんと計画をすれば、コストは決まってくる。しかし「安全」のコストは青天上である。このバランスをとるのが、政治である。
 5.支援する側に、何もこない
 実際に被災地支援を行なっている人たちへは食べ物さえ支給されてこない。災害地ボランティアでの大きな矛盾点である。
 6.津波の対策は、防潮堤では防げない
 防潮林のあった地域では津波被害が最少にとどまった。

 以上 6つの指摘に、なるほどとうなづいた。この度の大地震と津波と放射能の被災により、日本はこれまでに経験したことのない環境にいる。これを人類の継続のための新しい知恵に変えていかねばならないだろう。

塾長  渡邉 隆

2011.6.10  2年目の上越はつらつ元気塾

 「上越の元気の源はどこにあるか」をテーマに上越はつらつ元気塾は昨年7月に出発し、2011年3月12日に開催した第1回元気塾で、いまからおよそ50年前の旧高田の文化のうずを、その当時20才代だった池田・宮越両氏をむかえ、語ってもらった。お二人は、自分たちの「生活」の中に「豊かな人間交流」が日常的につくられてきていて、ごく普通の生活の中に、あとから思えば、深い「文化の泉」があったと思い出を語ってくれた。
 それをうけ、5月27日に開催した平成23年度通常総会後、プレゼミと称する講演会を行なった。話題提供者は、3月の塾に参加してくれた佐藤哲康さんだ。佐藤さんは、上越の出身で、高田高校時代の1963年に、坂口勤一郎先生の前で、化学の研究成果を発表している。その後、発酵学の領域に進んでいくと、学会で、その先生から声をかけられ、昼食などもごちそうになったという。そんな自らの発酵学への興味を支えてくれたのが、坂口先生であると楽しそうに話してくれた。はじめて会った時は、「何だ、この老人は?」と思ったそうだ。のちに坂口博士と知って、とても驚いたと笑っていた。
 当日の講話は、上越の保存食品の話からはじまった。上越の気候がその保存食品文化を支えているのだという。高温で多湿な条件は、微生物の天下であり、戦国時代からの酒、醤油、味噌などの麹文化の豊かさを語ってくれた。坂口先生の発酵学の流れは、上越に脈々とあり、今も柿崎の山奥に麹の達人といわれる人が存在しているという新情報も提供してくれた。この脈々とつながっていく上越での発酵文化の山脈の中には、まだまだ掘り出されていない興味ある宝がいっぱいありそうだ。それを深く掘りあてて、もっともっと「はつらつ」で「元気」になりたいと思うプレゼミだった。
 秋には、それをうけた第2回元気塾を開きたいと思っている。

塾長  渡邉 隆

写真(画像)
第2回上越はつらつ元気塾のプレゼミ

2011.5.23  希望がみえる!

 3月11日のいわゆる想定外の大震災と津波、さらにコントロール出来ない原子力発電所。この三つの事は、人間を圧倒してしまった。このあと、日本がおかしくなってきた。そういう私も何か心もとない気持ちで、この2ヶ月間を過ごしてきた。何かが、おかしい。何か力が入らないのだ。自然と人との対話がうまくいっていないのだ。
 私は、一人の自然科学者として学生時代から50年間も過ごしてきた。自然科学は、自然とうまく対話しているものと考えていた。あるいは、どこかで自然をコントロールできるものと思っていたのかもしれない。
 日本は、世界は、何が出来るのだろうと思いながら時を流していた。そんなとき、NHKのBSプレミアムで“Harvard For Japan”を観た。率直に、ショックをうけた。何とすばらしい人間たちが、ここにいるではないか。その衝撃的なシンポジウムの様子をここに報告したい。
 2011年4月22日にハーバード大学のサイ講堂で行なわれ、「ハーバードからのメッセージ ―世界は震災から何を学べるか―」と題するシンポジウムである。
 はじめに、元IAEA事務次長;オリ・ハイノネン氏が登場し、(1)福島原発で何が起こったのか、(2)福島原発の今後の作業、について解説した。そして吉田兼好「徒然草」の一文「世は定めなきこといみじけれ」を引用し、原子力発電についての考えを今この時点で変えていかねばならないのだと語った。
 また、ハーバード大学ライシャワー日本研究所;所長アンドリュー・ゴードン(歴史家教授)は、歴史学者として、今回の東日本大震災を次のようにみているという。1923年に起きた関東大震災と今回の災害を比較してみると、関東大震災は、第一次世界大戦の後、日本が、経済的には比較的上昇ムードのある中での災害であった。それに比べて今回は、やや悲観的な世相の中での災害である。この違いが、どのように影響し、今後日本がいどのように変化していくのかを50年後、歴史家として評価してみたいと述べた。
 次のシンポジストとして登場したのが、ハーバード大学、デザイン大学院のシホ・アゼレウ講師で、日本の防災対策は世界が手本となるような、立派なもので、世界に多大な貢献をしているという。
 神戸大震災のあと出来た、兵庫県三木市に「三木総合防災公園」という施設を解説した。ここは、通常は、スポーツセンターや消防学校などに使用されているが、いったん災害時になると、それぞれの部分が、災害時の役割をもつものに変化する。例えば、陸上競技場は、援助物質などの受け入れや貯蓄する「備蓄倉庫」に変身するという。そしてこうした施設整備を日本は積極的に行なっていて、これらのインフラ整備は、災害時の四分の1の費用でまかなえるものであるとの報告された。
 最後にマイケル・サンデル教授(政治哲学)の語った「日本へのメッセージ」が圧巻であった。「今後の日本の対応が世界にとって大きな意義をもつものと確信している。日本では、率直に今回の災害について意見をかわし、お互いに敬意をはらった議論をしてほしい。今、世界の民主主義が苦戦している。ここ数10年の間、経済を優先するあまり、政治や民主主義的議論をおしのけてきた傾向があった。その結果、政治のあり方について、世界中で、フラストレーションがたまってきている。今回のことは、民主主義に対する究極のテストである。人々にとって最も重要な、最も支裂なこの問題を、公の場で、敬意をもって議論できるかが、問われているのだ。もし、それが出来たら、世界が学ぶことは、教訓や復興に関することにとどまらないだろう。世界の民主主義の手本となり、日本にとってより強靭な民主社会をつくるきっかけになるだろう。“Harvard For Japan!”でなく、それは、“Harvard With Japan!”である」
 私は、このシンポジウムを聞いて、この度の災害は、想定外の問題であるが、それを人の知で越えてこそ、未来がくるのだという彼らのメッセージを強く受けとめた。

塾長  渡邉 隆

2011.3.24  第1回元気塾開催

 2010年7月、上越はつらつ元気塾は、「上越の元気の源はどこにあるのか!」をメインテーマにNPO法人として元気にスタートしました。そして、8ヶ月の間、取材・準備を重ね、2011年3月15日、第1回上越はつらつ元気塾を開催しました。
 テーマは、「上越の元気はここから!」で、第1回の塾のサブテーマとして、“先輩に学ぶ〜「上越の文化を伝える」を考える〜”としました。上越には、“文化”があるといわれています。私たちが考える「文化」とは、「生活」の中から生まれてくるものです。82歳を迎えるお二人の大先輩;池田稔氏、宮越光昭氏に登場願って、昭和から平成の現在までの上越高田の街の人物交流を語ってもらいました。
 ちょうど3月15日は、堀口大学の命日でした。高田公園には、堀口大学の石碑と歌碑があります。その碑の除幕式は、昭和55年に行なわれたのですが、その時、坂口謹一郎先生や、堀口大学の長女である、すみれ子さんも参列されています。その話題から会をはじめました。大先輩、池田稔氏、宮越光昭氏は、その式典の企画に加わっており、その時の話題をお話ししていただきました。お二人が、どのようにして坂口、堀口、両先生たちとおつきあいができたのかを伺っていると、高田には、昭和10年代から多くの文化人が、訪れていたとのことでした。堀口大学、棟方志功、坪田譲治、小田嶽夫、濱谷浩などとの交流をお二人の一世代前の方々が文化人との交流の舞台をつくっていたという話を伺いました。その様子を示す写真を私たちにみせてくれました。昭和30年5月に、「高田文化同好会総会」の集会写真でした。その中には、堀口大学、坪田譲治、小田嶽夫、浜谷浩などを囲む街の人たちの姿がありました。お二人の第3回芥川賞受賞の小田嶽夫との交流は、興味深いものがありました。小田嶽夫の記念碑をつくるための本人とのやりとりの中、小田の希望で高田公園ではなく、金谷山のふもとにひっそりと建つ碑の設立までの、小田氏とのやりとりに小田嶽夫の人生観を感じました。
 お二人のエピソードの中で興味深かったのは、20歳のとき、何のアポイントもなく、東京に住む小川未明のところに訪問したという話でした。どのようないきさつで訪問されたのかをお聞きしたら、「ただ、お会いしたかった!」とのこと。この若者らしいお話を聞き、とてもすがすがしい気持ちになりました。そんなに昔でもない、いまから50〜60年前の旧高田の街に「豊かな人間交流のながれ」があり、その生活の中から「文化」が育ってきた歴史があることを知りました。
 そんな大先輩の話をうかがい、人間交流の手紙や色紙や写真などを展示いただきながら、会は進行していきました。この文化の流れを次世代へ継続していきたいとの思いも、今回の企画の中で検討されていたことで、多くの高校生の参加もありました。その高校生たちの感想が、興味がありました。続くワークショップの展開などを行なうなかで、参加者からの「文化」についてのいろいろの意見を伺うことができました。会が終わった後の「ふりかえりシート」の中での高校生たちの声や、それをみている大人の姿がうれしい。「元気が出た」「今の上越でめずらしい明るい会」「生活が文化をつくる」「今を大切にしたい」「高校生の参加をよろこんでくれた年配の人たちがいたことがうれしい」「“好き”が文化をつくる」「高校生がしっかりとした意見を述べていたのがうれしい」「さまざまな人たちとの出会い」「若者が必要だという声に若者である高校生が反応した会だった」「不十分なことばで表現したことだったが、それに対して大人の人が『それはいいね』といってくれたことがうれしい」などなど、すばらしい反応が出てきました。
 「文化」は、生活の中で育てられていきます。その中にひたっている時は、また、創っている時は、その「文化」は「生活」ということばの中に入ってしまっています。時を経て、つくられたものが世に出てはじめて「文化」となります。気持ちのよい人間関係の中、その交流という「生活」のなかで育てられたもの、それが「旧高田の文化の泉」なのです。お二人は、当時、ひとりの「若者」として体験してきたことが、のちの文化の大きな「泉」の中にいたことをお二人からうかがうことが出来ました。

塾長  渡邉 隆

  

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